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知らないところで起こる感動が胸を打ちます。
東京藝術大学大学院五期生修了作品について
7月9日、ユーロスペースのレイトショーにて眞田康平監督の「しんしんしん」を見、先に横浜で行われていた修了作品展で見た4本を含め、これで今年の東京藝術大学大学院五期生修了作品は全て見たことになる。うろ覚えになっているものもあるが、感想を書いておきたいと思う。
伊藤丈紘監督の「MORE」。前作「ZERO NOIR」にも共通していたのだが、この監督の特徴といってもいい、途切れなく続く、過剰(あらゆるものにおいて作品を成立させる力の一つに思える)といってもいい会話は、この映画全体を包んでいる何かメタレベルにある戦略を感じさせる。事実、多くの鑑賞者には会話の内容よりも会話をしているという事自体が伝わり、それは言葉にすると「日常」や「他愛も無い」としか言えない会話ではあるが、ある限定された現在を切り出してしまう映画において、最も遠くにある表象なのではないかと思う。これと近いもので、「部屋にあるテレビではニュース番組が放映されている」としか言えない描写が多くの映画にある。(アニメーションでは聞き取れないように砕かれた会話を通してこの事が容易に達成されてしまう。)想像的などといってやや侮蔑を帯びて語られるほど希釈された映像、悪しき抽象に陥ってしまう危険を内側から破り、登場人物達の生を明確に映画として浮かび上がらせる為の一つの方法論である。と書いたところでこれと同じ事を違う方法で迫ったのが吉川諒監督が「PANORAMA」で企てた事であると思った。凝縮された映画を作る事で、ここに無い映画まで撮る事。手元にある作品紹介の書かれたパンフレット見て、縦に並んだ3枚のスチルが同じ作品のものであったと思い出すのに時間がかかるのはこの作品の効果と言える。「しんしんしん」の群像劇は「PANORAMA」同様、複数の人物を立てる事が順列組み替えのあらゆる関係、潜在的な物語の起源になる事を証明している。が、この作品の凄さは、それを正面から描き切った点にある。父、芳男が探す離ればなれになった息子で、今は水族館で働いているサトル。そっと見守っておくのが美徳とされそうなこの人物すら存分に絡ませてくる辺りこの監督の持ち味だと思う。全てを受け止める、宥める存在、として登場するような人物は一人もいない。終盤、幾度も家族に手を差し伸べてきた千里に訪れる危機に主人公朋之がサトルの部屋へと駆け込む理由は、潜在的な物語の可能性なのだと思うが、因果を越えてそこに飛び込んで行くのは監督の力だ。
気になった台詞の使用について一例を挙げれば、トラックの荷台で燥ぐ男女を照らすフラッシュが際立つ(この映画において最も美しいショットの一つ)この場面も、兄の「修学旅行ってこういう感じなのかな」という台詞が入ってくる辺り、修学旅行性というものがあるのであれば(懐古にある詩性?)、既に充溢したイメージに添えられる台詞が妙に落ち着かせてしまうと思った。135分という壮大な作品だが、急ぎ足で進む感があった後半を考えれば、これは180分にしても時間を割いてでもみる価値のある映画だと思う。対して、廣原暁監督は『返事はいらない』に徹底して二人の人物の、結果に結びつかない「間」を描いたように思う。主人公の二人、男女と表すのに覚える違和感はそれぞれ中性的という理由はあろうが、気になるのは異なるものが二つ並ぶような字面の方だ。それくらい似ている二人は「ごっこ」としか思えない同棲生活を送っているのだが、性的な描写は一切描かれず、隠喩と言えそうなイメージが随所に挟み込まれて映画が進行して行く。例えば主人公ミケの股がるのは活気のないポニー、その頭を垂れる姿は男性性の欠如を感じさせる。終盤、どこかの精神科医ならファルスとでもいっただろう、直立する煙突、廃墟において、いよいよ二人の旅に決定的な出来事が起こると思いきや、それすらもすり抜け、「何せ北海道だ、広大な大地でどんなラストが待っているのだろう」と前作ばりの壮大なエンディングを期待する僕(同じ事を考えた観客も多かっただろう)の予想を裏切り、静かに東京へと戻って行く。あるのは時間だけで、何も起こらなくてもいい。主人公ミケの仕事は美術学校のデッサンモデルであったが、映画もただそこに居るだけでいい。エンディングは前作同様、ARTLESS NOTE。
倦怠期の夫婦の現実をありありと映しながら、実験性に溢れた、ミニマルな「紙風船」という映画を撮ってしまった秋野翔一監督の「理容師」は35mmフィルムの質感も相まって、素朴さと暖かさに溢れた映画である。同時にこれは、ひねくれ者の僕に寄る辺無い程の不安を与えた。アニメーションを制作する僕に対し、彼はアニメーションを作る事は自分には考えられない、映画はカメラを回しておくだけで撮れてしまいますから、と自嘲気味に仰っていたけれど、撮れてしまうものが何か確信的な意志や強度を獲得する事が不思議でならなくて、映画を撮っている人は遠くて、その事自体尊敬の理由になっている。少なくとも僕にとって(これまで見た事のある)映画を撮る事は全く別の経験、感覚の突き詰めを必要とする作業に思える。(あるいは、まだ何も見れていないのだろう。)
回しておくだけで撮れてしまう事、黒沢清氏はその曖昧な装置こそが日本的な曖昧さと親和的であるという面白いお話をしていたけれども、少なからず介在する意志が、ありのままの現実など切り取る事ができようもない。普通のイメージをどう普通のままにしておけれるのか、廣瀬純氏の『シネキャピタル』の議論を借りれば、イメージはどう労働を拒否できるのか。多くが隠喩として機能するアニメーションにおいて、「普通」は何を意味するのか、それに迫る一歩として僕は「インデックス」としてのアニメーションに注目をしている(というより、記号論を援用する事で何が得られるか考えてみている)けれども、それを書くのは別の機会にしておいて、テアトル新宿でみた中編3本のオムニバス『movie PAO』の一本、真利子哲也監督の『NINIFUNI』について触れておきたい。この作品は「普通」とは対局、これほどイメージに過剰な労働を課した作品を僕は見た事が無かった。息を飲むと同時に、映画というにはあまりに不似合いな退屈さえ含んでいそうな男の時間。それがももいろクローバーが登場してからは徐々に沸き立つ異様さに………すごい……すごい…すごいすごいすごいと圧倒される。そう、僕らが生きている世界はこの映画のように、当然に(普通に)複雑で異様なものだと。多くが、意味の無い映像に浸って茹でガエルになる寸前の僕を飛び上がらせる覚醒の映画。
とはいえそれでも固有に縋って独自の経験を鍛えていかねばならないだろう。全体は個々の努力によってこそ、進化を遂げる。『シネキャピタル』でもう一つ興味を引いたのが、「歴史の終焉」に対するドゥルーズの「形式的」「実質的」の二つのアナクロニスムの提示による、「経験の歴史性」の基礎付けである。
一言でいえば「やってもいないことをやった気になる」怠惰としか言いようのない賢さとそれを迫るアーカイヴの病を前にして僕らがとりうる方法の一つは、佐々木中を読む事ではなく、「美学的かつ政治的なプロジェクト」を一つでも多く立ち上げる事だ。アニメーションのあまりに特殊な経験が、(というと我田引水に思われるかもしれないから言い換えておくと、稀有な時間経験を強いるこの装置を乗りこなす事が出来たなら、)出来上がったものを見る行為は映画のそれと同じわけがない。ここで僕が提出するのは、のろまなメタモルフォーゼである。「経験の歴史性」を記述し、スタジオ、個人いずれの規律を越えて「変身」を齎すアニメーションの力能。






