IE9ピン留め

ポップ2 「水村美苗」

電車の中で今から自分がすることについて考える。つまりアルトーを盗むということがどういうことを意味するのかである。不意に僕が思い描いたのは彼が晩年に書いた自画像にある途切れ途切れの線であったが、黴か苔かが染みついたマダラのトンネルを抜ける瞬間に射し込んだ熱がそれを朦朧とさせ、その後あらわれた初毛のような線とそれが生えなびく肌も数秒で消してしまった。こう暑くては何をするにも軽いものが相応しいと言い聞かせ、鞄から取り出したのは辻邦生と水村美苗の往復書簡『手紙、栞を添えて』である。が、これが間違いだった。ドストエフスキー、プルースト、ジェーン・エア、ディケンズ、エミリー・ブロンデ、リルケ、スタンダール、日本では漱石や安吾など、毎回、文庫にして4頁ほどの短い文章に次々現れる固有名は、作家という存在―そこに居る人々は常に過去と同時に生きる―を魅力的に浮かび上がらせるし、彼らが暮らすたっぷりとした空間を作りあげている文学の歴史を素朴に讃えたい気持ちにさせる。とはいえ、というべきかそれゆえというべきか、交わされる言葉は即興的なようでその一節一節が深い文学論になりえるような可能性を含んでいて、読んでいるこちらも到来する類似の一々に触れるのであれば、直ぐに立ち止まる事になってしまう。(その瞬間差し込む熱が僕を潜らせてくれないのであるが。)文学者たちの現実との戦いの跡。
読むことと考えることの時間がとてもとても釣り合わず、凝縮された言葉は次から次へと押し寄せる友人の久しぶりの顔、その誰もが抱える趣向を凝らしたお祝いの品々に、忙しない僕は旧交を温めることもできずにただただ悔やまれる、修了制作展の記憶である。
思い返せば岩波書店からでている20世紀思想家文庫の一冊、『トーマス・マン』を書いていたのが辻氏であって、この内容はうろ覚えなのでほとんど偏見かもしれないが、しきりにマンの中の未分化でいて底知れぬ生(き)の知性、そのドイツ的なるものを、教養という言葉の相応しい制度化されたフランス的な知性との対比で描き出していたのは彼がフランス文学者であるからだろうかと納得したくもなる。椹木野衣の『日本・現代・美術』でも幾度も言及されてきたが、『私小説 from left to right』や、漱石の未完の小説『明暗』を完璧な文体模倣で書き継いだ『続明暗』などで知られる水村美苗。その徹底した媒体=日本語への眼差しは文学という括りなどなく、あらゆる表現者にとって必要なものとさえ思う。大学ではポール・ド・マンの教えを受けていたという知性の持ち主で、『日本語が亡びるとき』のアンダーソン批判は鋭いというよりも執拗で、故に悲しい。今思えば論旨関しては佐々木中の『切り取れ』にかなり先行している部分もあるのではないだろうか。
個人制作のアニメーションというマイナーな表現に携わっている自覚は、些細なことでも日常的に人に何かを教える立場になった時により強いものになった。学生は本当に貴重な存在だという事に気がついたのだが、(日本で美術をやるということ自体がそうなのだという人もいるし)日本語で書くということをそれと同じくらい水村は感じているのだろう。僕にはそれがまだ想像が及ぶくらいの話ではある。これを読んだあと漱石の『三四郎』を部分的に再読したのだが、なるほど、以前よりも何倍も面白いのである。


# by ryo_uhachi | 2011-08-15 11:02

ポップ

扉は簡素な鉄で出来ていて、間取りも単純な僕の部屋にあっては、数米先で鳴るノックの音は当然同時に届くはずが、その人の場合はなぜだか仄かな前奏と余韻を含んでいて左右の耳は多少の目眩を起こした。言葉遣いも同様で、特に「やはり」という言葉は、本来そこにあるはずの決めつけた態度やどうしても帯びてしまうはずの強引さが少しもなく、ややもするとその固形の意志を見逃してしまいそうに成る程に、意味の頂点に触れるまで、触れた後に立ち去る姿は潔く、速い。それ故、言い渡される頼みがどんなに困難であろうとも、誰もが日々淡々とこなしている事柄のように引き受けてしまうのだろう。目を覚ます。窓を開ける。ぐーんと伸びをする。頼みを引き受ける。顔を洗う。そして、歯を磨いている間に気がつくのである。
言い渡されたのは、とある本を盗む事。それと同じ理由で幾つかの大それた物語が紡がれてきた事は知っているが、生憎僕は自分の生活をそれら蒼々たる文学的事象に昇華させる程の想像力も好奇心も持ち合わせてはおらず、しかし春休みのありあまる時間と少しの責任感で、芽吹く倦怠感には眼をつむる他なかった。
 
   
電車の中で考える。考えるのはいつも電車の中だ。そしてまたヒステリーは服の下で泡立っている。
とはいえ、日々ある目的に向かって計画を綿密にたて、それを落ち着いて実行する事はポップといえるだろう。何かを成す事が芸術と呼ばれる今日にあっては、芸術に必要な条件はポップであるからだ。おい、それは軟派な奴のする事だ、そんなにすんなり歩み出すものではないという反論は無論、承知の上だ。諸々の不安を口にする、とりわけ自分の属する集団への不満を漏らすのはポップである事、その十分条件にはなり得るかもしれないが必要条件ではない。それに、何らかの「徹底した」言明が不完全であるばかりか、最初から「徹底した」ものである事を仮定して、安定の道を行こうとする事が酷く貧しい結果を生んでいるのではないか、そういう思いがあるから、敢えてたゆたってみようではないか。(しかしこの不安については此処で考えてもいいのかもしれない。)



# by ryo_uhachi | 2011-08-11 16:40 | メモ

無題

# by ryo_uhachi | 2011-08-10 09:16

薬指が異様に長い男

こういう時代にあっては子に名前をつけるのも容易ではありませんね。あそこの三男は長男の三倍もヒットするそうよ、なんて主婦同士の会話が繰り広げられている。検索の病が日々浸透し、自然となった暁には僕らの右手の薬指は中指よりも長くなっているのではないかと思います。
さて、隣人がこれといった用も無いのに海外に行きたくなるという時、(道行く人の誰も彼も知らぬ地に飛んで行きたいという願望などこんな片田舎ではハナから有りもしないだろうに)気をつけなければいきませんよ。この薬指が異様に長い男、何か犯罪の臭いがします。

# by ryo_uhachi | 2011-08-04 16:43

臭いのある映画

夏休みを利用して地方から訪れたの10代の学生が何かを見思う間に終電を逃し、深夜渋谷で何かいけない事をしているような気になりながら朝まで当て所無く彷徨って、結局歩いて帰宅した彼(女)は映画を撮りはじめる。そんな臭いのある映画がありますね。

# by ryo_uhachi | 2011-08-02 22:51

3つ(もしくはもっと多く)の受肉についてのメモ

何れにせよ、ものを創る行為に励む人達は、何かに魅せられた経験を有しているように思うが、(多少乱暴な言い方をして、商業的なものを差し置いて。彼らが魅せられているのはその効果、制作物との間にある半透明の断層、これが屈折を生む)それにも関わらず彼らは圧倒的に不在、不満を感じているのは事実である。
こうであったはずとこんなはずはない、という二重の、それぞれ巨大な事だけが伝わるような漠とした不安。そのどちらかでも記述できるほど強度の経験を有していれば、それはもう才能といって差し支えないように思う。例えば映像作家・牧野貴氏が幼き日に生死を彷徨った際に体験した幻覚としての理想の映画はまさしくこれに当たると思うが、中沢新一氏は日本語の「観念」という言葉をプラトンの「イデア」と旧石器的人類の洞窟体験を接続して、人類に根源的にある「かたち」や「イメージ」として説明してくれている。(『芸術人類学』p130-161)

先日訪れた食事処で注文後に体調が急変し、一口も食わずに洗面所で吐き続けた後、会計時に過った僕が料金を請求するというイメージは対称性の思考だろうか。

アニメーション評論家の土居伸彰氏が僕の作品についてtwitterやblog等で書いて下さったのだが、氏のいう疑問点に関しては、これから考え続けなければいけないと思っていて、疑問の具体的な内容についてはネットでは読む事ができないので此処では引用しない。というのも直接聞いたお話であるからだが、氏の指摘は「題材となるテクストが適切であるか」というものだ。これは僕が思うに、作品の領域に関する事になるかと思う。僕の作品をデリダっぽいと言った友人に応えるつもりで、東浩紀氏の説明を借りていうならば「テクストをオブジェクトレヴェル(コンスタティヴ)で読むかメタレヴェル(パフォーマティヴ)で読むか決定できない、その決定不可能性を利用してテクストの最終的な意味を宙吊りにする戦略」(『存在論的、郵便的』p.76)が、僕の目論みに含まれる。しかし、これがどちらがどうとかいう話では無く、より生産的に展開するならば、メタレヴェルでの読解を妨げるような何かが(場合によっては土居氏の対象とする領野に限定して、)アニメーション(と呼ばれているもの)に内在されている(いた)のでは無いかという点に話題を変える必要がある。

メタレヴェルの超克を。

何かをみて感じるという体験にある、受肉とその内面化としての文体の生成について、中井久夫氏の「創造と癒し序説ーー創作の生理学に向けて」(『アリアドネからの糸』所収)のテクストは活力を与えてくれる。(創造が作家にもたらす治癒像「自己模倣」「絶えざる実験」「沈黙」「自己破壊」の4つのタイプ、貴方が作家ならばどうだろう。)

中井氏のいう「創作の生理学」にあたるかもしれないが、今書いた事柄が並ぶよう均している。すなわちのろまなメタモルフォーゼとしての「成る」という経験について、Cy Twomblyを偲びながら。(この文章は一番最初に書いている。)






# by ryo_uhachi | 2011-07-27 21:31 | メモ

24FPS









# by ryo_uhachi | 2011-07-15 16:41

24FPS

# by ryo_uhachi | 2011-07-13 21:12

24FPS

# by ryo_uhachi | 2011-07-12 19:04 | 今日の出来事

最近について

更新が暫く途絶えておりました。
知らないところで起こる感動が胸を打ちます。

東京藝術大学大学院五期生修了作品について
7月9日、ユーロスペースのレイトショーにて眞田康平監督の「しんしんしん」を見、先に横浜で行われていた修了作品展で見た4本を含め、これで今年の東京藝術大学大学院五期生修了作品は全て見たことになる。うろ覚えになっているものもあるが、感想を書いておきたいと思う。
伊藤丈紘監督の「MORE」。前作「ZERO NOIR」にも共通していたのだが、この監督の特徴といってもいい、途切れなく続く、過剰(あらゆるものにおいて作品を成立させる力の一つに思える)といってもいい会話は、この映画全体を包んでいる何かメタレベルにある戦略を感じさせる。事実、多くの鑑賞者には会話の内容よりも会話をしているという事自体が伝わり、それは言葉にすると「日常」や「他愛も無い」としか言えない会話ではあるが、ある限定された現在を切り出してしまう映画において、最も遠くにある表象なのではないかと思う。これと近いもので、「部屋にあるテレビではニュース番組が放映されている」としか言えない描写が多くの映画にある。(アニメーションでは聞き取れないように砕かれた会話を通してこの事が容易に達成されてしまう。)想像的などといってやや侮蔑を帯びて語られるほど希釈された映像、悪しき抽象に陥ってしまう危険を内側から破り、登場人物達の生を明確に映画として浮かび上がらせる為の一つの方法論である。と書いたところでこれと同じ事を違う方法で迫ったのが吉川諒監督が「PANORAMA」で企てた事であると思った。凝縮された映画を作る事で、ここに無い映画まで撮る事。手元にある作品紹介の書かれたパンフレット見て、縦に並んだ3枚のスチルが同じ作品のものであったと思い出すのに時間がかかるのはこの作品の効果と言える。「しんしんしん」の群像劇は「PANORAMA」同様、複数の人物を立てる事が順列組み替えのあらゆる関係、潜在的な物語の起源になる事を証明している。が、この作品の凄さは、それを正面から描き切った点にある。父、芳男が探す離ればなれになった息子で、今は水族館で働いているサトル。そっと見守っておくのが美徳とされそうなこの人物すら存分に絡ませてくる辺りこの監督の持ち味だと思う。全てを受け止める、宥める存在、として登場するような人物は一人もいない。終盤、幾度も家族に手を差し伸べてきた千里に訪れる危機に主人公朋之がサトルの部屋へと駆け込む理由は、潜在的な物語の可能性なのだと思うが、因果を越えてそこに飛び込んで行くのは監督の力だ。
気になった台詞の使用について一例を挙げれば、トラックの荷台で燥ぐ男女を照らすフラッシュが際立つ(この映画において最も美しいショットの一つ)この場面も、兄の「修学旅行ってこういう感じなのかな」という台詞が入ってくる辺り、修学旅行性というものがあるのであれば(懐古にある詩性?)、既に充溢したイメージに添えられる台詞が妙に落ち着かせてしまうと思った。135分という壮大な作品だが、急ぎ足で進む感があった後半を考えれば、これは180分にしても時間を割いてでもみる価値のある映画だと思う。対して、廣原暁監督は『返事はいらない』に徹底して二人の人物の、結果に結びつかない「間」を描いたように思う。主人公の二人、男女と表すのに覚える違和感はそれぞれ中性的という理由はあろうが、気になるのは異なるものが二つ並ぶような字面の方だ。それくらい似ている二人は「ごっこ」としか思えない同棲生活を送っているのだが、性的な描写は一切描かれず、隠喩と言えそうなイメージが随所に挟み込まれて映画が進行して行く。例えば主人公ミケの股がるのは活気のないポニー、その頭を垂れる姿は男性性の欠如を感じさせる。終盤、どこかの精神科医ならファルスとでもいっただろう、直立する煙突、廃墟において、いよいよ二人の旅に決定的な出来事が起こると思いきや、それすらもすり抜け、「何せ北海道だ、広大な大地でどんなラストが待っているのだろう」と前作ばりの壮大なエンディングを期待する僕(同じ事を考えた観客も多かっただろう)の予想を裏切り、静かに東京へと戻って行く。あるのは時間だけで、何も起こらなくてもいい。主人公ミケの仕事は美術学校のデッサンモデルであったが、映画もただそこに居るだけでいい。エンディングは前作同様、ARTLESS NOTE。
 倦怠期の夫婦の現実をありありと映しながら、実験性に溢れた、ミニマルな「紙風船」という映画を撮ってしまった秋野翔一監督の「理容師」は35mmフィルムの質感も相まって、素朴さと暖かさに溢れた映画である。同時にこれは、ひねくれ者の僕に寄る辺無い程の不安を与えた。アニメーションを制作する僕に対し、彼はアニメーションを作る事は自分には考えられない、映画はカメラを回しておくだけで撮れてしまいますから、と自嘲気味に仰っていたけれど、撮れてしまうものが何か確信的な意志や強度を獲得する事が不思議でならなくて、映画を撮っている人は遠くて、その事自体尊敬の理由になっている。少なくとも僕にとって(これまで見た事のある)映画を撮る事は全く別の経験、感覚の突き詰めを必要とする作業に思える。(あるいは、まだ何も見れていないのだろう。)
 回しておくだけで撮れてしまう事、黒沢清氏はその曖昧な装置こそが日本的な曖昧さと親和的であるという面白いお話をしていたけれども、少なからず介在する意志が、ありのままの現実など切り取る事ができようもない。普通のイメージをどう普通のままにしておけれるのか、廣瀬純氏の『シネキャピタル』の議論を借りれば、イメージはどう労働を拒否できるのか。多くが隠喩として機能するアニメーションにおいて、「普通」は何を意味するのか、それに迫る一歩として僕は「インデックス」としてのアニメーションに注目をしている(というより、記号論を援用する事で何が得られるか考えてみている)けれども、それを書くのは別の機会にしておいて、テアトル新宿でみた中編3本のオムニバス『movie PAO』の一本、真利子哲也監督の『NINIFUNI』について触れておきたい。この作品は「普通」とは対局、これほどイメージに過剰な労働を課した作品を僕は見た事が無かった。息を飲むと同時に、映画というにはあまりに不似合いな退屈さえ含んでいそうな男の時間。それがももいろクローバーが登場してからは徐々に沸き立つ異様さに………すごい……すごい…すごいすごいすごいと圧倒される。そう、僕らが生きている世界はこの映画のように、当然に(普通に)複雑で異様なものだと。多くが、意味の無い映像に浸って茹でガエルになる寸前の僕を飛び上がらせる覚醒の映画。
とはいえそれでも固有に縋って独自の経験を鍛えていかねばならないだろう。全体は個々の努力によってこそ、進化を遂げる。『シネキャピタル』でもう一つ興味を引いたのが、「歴史の終焉」に対するドゥルーズの「形式的」「実質的」の二つのアナクロニスムの提示による、「経験の歴史性」の基礎付けである。
一言でいえば「やってもいないことをやった気になる」怠惰としか言いようのない賢さとそれを迫るアーカイヴの病を前にして僕らがとりうる方法の一つは、佐々木中を読む事ではなく、「美学的かつ政治的なプロジェクト」を一つでも多く立ち上げる事だ。アニメーションのあまりに特殊な経験が、(というと我田引水に思われるかもしれないから言い換えておくと、稀有な時間経験を強いるこの装置を乗りこなす事が出来たなら、)出来上がったものを見る行為は映画のそれと同じわけがない。ここで僕が提出するのは、のろまなメタモルフォーゼである。「経験の歴史性」を記述し、スタジオ、個人いずれの規律を越えて「変身」を齎すアニメーションの力能。








# by ryo_uhachi | 2011-07-11 19:44 | 映画

TWRB

# by ryo_uhachi | 2011-07-05 17:39

メランコリックな高原

         はああっふフフフぃいひひひって意味が滴たり爛れ落ちる


                 生憎記憶に異常なし



            ♪何にも成し遂げられないんだ僕ら♪


        意味は充溢、腐敗繰り返し、浮かび、果てます、たぶん

# by ryo_uhachi | 2011-06-02 22:37

はあああああ

# by ryo_uhachi | 2011-05-30 20:01

梅雨の重力。梅雨の引力。

力の入れ方を間違っているという感覚が頬を伝います。
梅雨という言葉がなかったら、空気と水のだらしない関係を、その終わる事のないような持続を、幾度も投げたコインが表を見せ続けるのと同じ、ただの偶然と捉えた事でしょう。「結局」という言葉はいかなる関係を諦めながら、それに寄り添う様に、肯定も否定も解決もなく、ただ凡庸なものへとなしくずす為にいつも手に取られるのでした。
カラッとした太陽の記憶は大事にしまってあって、望むならいつでも取り出せますから、対比的に楽しむ事も出来るかもしれない。そういった思いを最終手段に構えて、冬の寒さと同様、このじめじめとした季節を乗り越えたいと思うのです。
最近は、久しぶりに行った回転寿司でみた光景、何に支えられているか分からないあの歯に噛むような美学と共に、ノズルという言葉にあるような、安っぽくて汚れていて、暴力的で、うまく操れなくて、それでいて譲れない感覚が言葉と言葉以外から伸びているのを感じています。

一言でいえばシナリオなんでしょうが、最終的に映像にする為に作られる言葉について、色々と思っていた事を整理する機会が得られそうです。整理といっても既にあるものを並び替えるだけでなく、変身してしまう事は免れないようにも思いますが、その誘惑に狩られないよう落ち着いて準備をしたいと思っています。
無数の感覚を束に纏めて一つの秩序をつくったところで、結局また別のメディアに移し替える過程を挟む以上、いかなる可能性をも含んでいるという点において、中継地点、とりあえずのものと捉えた方が懸命なのかもしれません。そして出来上がった映像もまたあらゆる言葉へと分散され、場合によっては浴びせられ変化を被るのですから、最初の「あるべき」形は辿りようもありません。(そのような仮設をする事はその都度訪れる瞬間の変容、それより大事な制作の感動を拒む可能性が出てくるのであまり薦めないというのが制作者の本心ではあるのです。)
大事にしたいのは、そういった変化の段階において何が行われているかという問題意識を深め(させ)る事なのです。

# by ryo_uhachi | 2011-05-29 22:26 | 今日の出来事

ダイアグラムへ

振り返るだけで一月や二月過ぎてしまうのではないかという程、色々と思う事があったはずが、そういう時ほどいざ目の前にして書くべき事などほとんど無い事に気がつく。そういう事態を回避するために始めたはずだったこれも、いつしか意味が変わってきたように思え、変化はいたしかたないがその変化すら忘却せしめるなら何もかもが無駄だったと僕は断言するだろう。僕は、なれやしない第三者になるために、軌道を修正し、別の逃走線を引く為、言う事を聞かない身体に慣れるように、また始めたいと思っている。それほど大事なことは無かったのだ。有ったのは空白だ。
旅に出る準備を進めている。それ自体信用するには多少の勇気を必要とする地図(今手に入れている情報はこれがすべて)、それによると向かう先はこれまでの方法の通用しない過酷な場所らしい。霧の高原、その都度新鮮な出遭いが起こり、同時にそれはこれまでのあらゆる意味が死ぬ場。下らぬ未練で生き返らせようとする奴が気違いじみた患者に成り果てる、これまで恐れていたのも頷ける亡霊たちとの出遭いの場。あらゆる形態が見知らぬ意味と出遭い、強引に接着させられる、この場で必要とされるのはイメージだ。サッカーのグラウンド、下手糞な小学生同士のゲームにある、全員がボールに向かう時のあのだらしなく止め処ない運動の最中、パスする瞬間にされる側へと意識を移動し、予測し、いち早く開かれた空間に動いて見せる。何を思ったか。当然、あらゆる予測が裏切られる可能性の中で、賭けてみる。イメージの芽生える瞬間を体感する。この考えは突如として降りたったのではなく、常に傍らに有った、有ったのに気がついていなかった。これも分類の効果である。恐れているのはイメージの私物化だが、おそらくそこではもはや私物化などできない。ここでは私的言語など存在しない。

狂気について考える中で多くのインスピレーションを与えてくれた佐々木中の『夜戦と永遠』はおそらく鏡張りのゾートロープでその論旨のほとんどを説明出来るのではないか、という予感が到来した。いったい幾つの類似の束を導入すれば、今はほとんど妄想に過ぎないこの考えを徹底的に説明する事が出来るだろうかと考えている。おそらくマックス・エルンストという人はこの事を全てわかっていたように思う。

# by ryo_uhachi | 2011-05-15 00:41

バーナード レイトナー『ウィトゲンシュタインの建築』

今僕が寝そべってタイプする時の煩わしさがなければどんなに楽だろうと、椅子に座りなおして読んだのは『ウィトゲンシュタインの建築』である。アフォードさせるというかさせないというか、兎角思考に建築がもたらす影響について考えさせられる。マーク・ベイカーの『ヴィレッジ』はそういう意味で面白いアニメーションだ。単なる閃きに過ぎないけどこの作品とパノプティコンを同時に考えたいと思っている。

# by ryo_uhachi | 2011-05-12 21:19

アルト―『神の裁きと訣別するため』

少し気分を換えたくて過去3年の記事を非公開にしているのだけれど、空っぽになった心に久しぶりの電車は何か注いでくれるよう。こちらとあちらに三人がけのシート。こちらには僕、僕の隣はこういっては失礼だが老人特有のあの押し入れの臭い、それさえなければ置物と見紛うほどただじっと何かの数字が並んだ紙を見詰めるおばあさん、その横には茶色の短髪をテカテカ立たせて流行の1から5までを常に揃えておく事が仕事であるようなスーツのサラリーマン、その向いには新聞を広げた、爪楊枝でも加えていれば文句のつけようもない首元だるだるシャツにジャージを羽織ったおじさん、一つ席を空けて上半身に比べて下半身がやや太い、不均衡を備えた国語の教師でもやってそうな優しそうな黒髪の中年女性。老若男女五人は見事に不揃いで、あとは向かいの空いた席に黄色い帽子にランドセルを背負って「まだこんなにも肌寒いのに短パンか」とでも言いたくなるような子供でもくれば、もう、明朝体で書かれた「人間」という文字が床に大きく寝そべるほどのぴったり加減で僕らは図鑑に成れたのですが、生憎その空白は埋まる事は無く時間は過ぎて行きました。

転居してから、刺激といえばたまに飲む炭酸水しか無かった僕にアルトーの電撃は突如襲いかかりました。

# by ryo_uhachi | 2011-04-26 21:05

先の話をさせるのはおおよそ幸福

何かを新しく始めようと思う時に消し去りたいのは中途半端にした過去でありますから、ここはひとつ我を忘れるつもりで望んでみようと思います。ひとまずすべてを仕舞って、報告したい人一人に届くかわからない久しぶりの更新で思いを馳せ、ああ、これも未練かと僅かばかりの薄気味悪さが通り過ぎていきました。
世界に対する態度を求められて、即座に浮かんだのは判断停止という言葉で、いずれ作る何かを「ロカンタン」と名付ける事は決まったというお告げがあった昨夜、僕は背の高い椅子に座って雑草を口にしていました。これは夢の話です。現実はというと大学院を修了して、新しい土地に来ました。

これから始めるのは次のような言葉への親近感を集め、固めることです。
「エプスタンにとって、モンタージュは、映像の間に幻影を生み出し、何らかの総合的な観念にいたるための手段ではない。中心も総合も斥けるモンタージュは、ほとんどエイゼンシュテイン的なモンタージュの対極にある。ひとつひとつのイメージが、それぞれ固有の時間を持って散逸しながら共振する無数のファセット(切子面)となり、巨大な結晶を構成する。」

このほとんど回答のような文言を迂回して、その後に引用されるエプスタン自身の言葉「昆虫にそなわっている小眼面を持つ眼の視覚よりも、たしかにもっと複雑であり、あらゆる種類のルーペや眼鏡をそなえた多数の目」、あるいは映像に戻らなくてはならない。
まだ咄嗟に自分に語りかけてくるものを受け止めている、半分事故のようなもの。

宇野邦一『映像身体論』

小川洋子『薬指の標本』

# by ryo_uhachi | 2011-04-18 21:36

私の動揺の前

だだだっと思い通りに指で叩いて、それは本当に適当で、気分というしかないほど曖昧で、後は、これこそが本来の私なのだ、と無理矢理こしらえしつらえた悲しくて楽しい日々はもう終わりです。何にもありません。そんな私の前に現れた人はすこぶる奇妙な話を真面目な顔で話しますので、私は遊び半分でそれを聞いていました。彼によるとどこか遠くのアンリというおじさんが、忘れることなどできない、と教えてくれたというのです。アンリというおじさんによると人は生きていく中でそれまで出会った人であるとか、読んだ本であるとかその記憶はどれだけ時間がたっても無くなることなく、その人の頭のどこか(彼曰くそれは心に違いない)に溜まっていて、ずっと残っていて、無くならないそうなのです。
それはとてもロマンチックだけれど、私は最初から疑問に思っていたことがあって、それは彼にとっては全く気がつく必要もないというか全く触れる気もないというか、彼自身ではない、ぽかんと空いた真空のようで、それこそ長い時間がたつと忘れてしまいそうな、私だけが感じているのかも怪しくなってくるような、そんな疑問は話の最後まで残り続けました。アンリさんは大分昔の人のようで、もう、とうに亡くなられたわけだから、いったい今なぜアンリさんをおじさんと呼び今もなぜおじさんであらしめようと思うのか。ちっちゃな赤ん坊として生まれたアンリちゃんが少年になって青年になって大人になって中年になっておじさんになっておじいさんになって(結構長生きしたらしい)、身朽ち果て魂になったなかで、なぜにおじさんであるのか。私はアンリさんがおじさんであろうとなかろうとどうでもよいと一瞬思って、はたと気がつきました。このように思うのです。
アンリさんはおじさんの時、もっともアンリさんらしかった。アンリさんがアンリさんであることにおいてアンリさんを満たしていたのだ。アンリさん100%、それはおじさんの時に訪れたのだ。それは肉体が朽ち果てても無くなることなどなく息づいているもので、それこそアンリさんの考えであり、アンリさんなのです。
彼に言わせると、それは当然ちっちゃなアンリちゃんの中にもあったというのです。これは、奇妙な話です。人は経験していく中で生きる術、(知識などもここに入ると思います)を身につけていくものだと思いますから、赤ちゃんの時にすべてがあったなどということは、にわかに信じがたい話です。しかし、私には、これから歳をとっていく事になんの興味もなく、実際これまでわずかに重ねたそれに何の感慨もなく、そしておそらくこれからもそうだろうと思っていた私を、まだ生まれていないような気にさせるものだったのです。それは自分が無くなってしまうようなものではなくて、透明でも不透明でもなくて、あらゆる荷物を取っ払ったことで影を落としていた部屋の隅が照らされ、その空間が明瞭が伝わってくるような、痛烈な形の経験だったのです。これももとからあったのです。無くなるものでは無いのです。


# by ryo_uhachi | 2011-03-20 06:07 | 今日の出来事

骰子についての会話

私達はたとえ骰子の正面が見えていたとしても、確かめずには反対側の数字を知った気にならないという点では共通している。この目で見ずには、いや、この目で見たとしても凹みを指の腹で押してみたり、凹みに舌の先を埋めてみるまでは。そう思って始まった私と或る人との会話は、まずはセオリー通りといった感じでお互いの共通点を探る所から始まる。しかしおそらく私達はお互いが自分の事に、またお互いがお互いの事にそんなに興味が無い、という予想が私だけのものではない事が判明して、それが予想でなくなるまでに掛かった時間は30分で、最初は向かい合っていた私たちは結局、二つの空席をのこして同じ壁を見つめる事になった。骰子の向こう側の数字を知りたいが為に、テーブルの向こうへ180度移動する私と違って、彼は直接持ち上げ回転させるだけで済む。ひょいとするだけ、その手さばきはあまりに見事だ。私は彼の手に対する疑問は一先ず考えない事にするし、彼の方も私の遅い足については見ない事にしてくれている。彼は右に左に回転させたり、しまいにはその中身が知りたくなってひっくり返したりもする。私も少し彼になってみようと覗き込んだ骰子の内側、そこに書かれていたのはやはり、あまりに当たり前のことだった。

こんな風にして誰かが誰かに告げた悲しい出来事は、私には悲しいほど伝わってこない。お前ら、互いの目を疑え。こんなにも冷たい自分に重ねる言葉は何もない。



フェリックス•ゴンザレス=トレス


矢口克信



ヒトラーとオッカムの剃刀に感じる私の。

# by ryo_uhachi | 2011-02-20 05:27

無題 |


# by ryo_uhachi | 2011-02-15 18:12

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